YOSANO OPEN TEXTILE PROJECT

石川・富山×絹織物/化合繊

石川・富山編Vol.1

石川県は長い織物産業の歴史を持つ。江戸時代には加賀藩の政策により芸能や食など幅広い文化が花開いた土地だ。蒔絵、和紙、竹細工、そして織物など様々な工芸文化も育まれた。「加賀羽二重」として全国にその名を知られた絹織物は、桐生や福井といった周辺の産地と切磋琢磨しながら発展を遂げる。特筆すべきは津田米次郎が製作した津田式力織機をはじめ、いくつもの織機を考案し全国に広めたことだ。1909年、米次郎とともに織機を開発した津田駒次郎が「津田駒次郎工場」を創業。のちにひらく織でもおなじみ「津田駒工業株式会社」となる。やがて米次郎の子の機三(きぞう)が「津田製作所」を設立し、「北陸機械工業株式会社」の元になった。力織機の開発が、現代のものづくり産業の基盤となる機械工業分野を打ち立てた。

 

今日では撚糸をはじめとする糸加工からニット、レース、ゴム入り細幅織物、合成繊維など多種多様な産業が息づく「繊維王国いしかわ」として一大産地を形成している。

 

細幅織物の工場

富山県も古くから織物が盛んな土地だった。江戸時代に加賀藩の文化政策の庇護も受け、江戸に向けて製品を生産していた。明治時代には新潟県の五泉から技術者を招いて羽二重と絽の生産を始める。絽と紗の生産量はピーク時には全国の3割を占めていたが、現在はわずか2軒にまで減少している。そのうちの一軒で、ひらく織と同世代の若い女性が家業を継いで活躍しているらしい。しかも絹織物で、自社ブランド商品も生み出しているという。北陸産地の事前リサーチで得た情報は、私たちの心を躍らせた。

月と星と生きる 松井機業

「玉繭の節は、まるで流れ星のように見えるんですよ」。糸繰りをしながら、松井機業6代目 松井紀子さんは絓絹(しけきぬ)を愛おしそうに見つめていた。

松井機業6代目 松井紀子さん

松井機業が位置する富山県南砺市城端(じょうはな)町は、およそ450年前に建立された浄土真宗大谷派別院善徳院の寺町として歩みを始める。機織りも同時期に始まったとされ、大正時代には30軒以上の機屋が栄えたが現在は松井機業と他に一軒が残るのみ。松井機業は「絓絹(しけきぬ)」という特殊な織物を軸に、創業142年の歴史を紡いでいる。

煙突が残る工場

絓絹とは、節やムラのある太い「玉糸」を緯糸に、経糸には通常の生糸を使った織物を言う。紀子さんは緯糸に使う「玉糸」の製糸工場を見るために、はるばるブラジルを訪れていた。「とても綺麗な環境でした。玉糸はかつて捨てられていたものですが、今では付加価値が付いた特注の糸です」。玉糸とは二頭以上の蚕が一つの繭を作った「玉繭」から繰りとった糸のことで、不規則な表情を生かして銘仙や紬などの着物に使われている。松井機業は創業間もない頃から、絓絹を和紙と貼り合わせた「襖紙」を生産しており、現在も主力商品である。糸繰り・管巻き・整経・経通し・製織、なんと精練も自社で一貫生産し、さらに染色と和紙にはり合わせるところまで行っている。襖の他に壁紙、伊勢型紙に使われる紗、絽も生産している。

玉繭の生糸

「カン カン コン カン コン カン」。片側一丁の織機が奏でる機音は、ゆっくりと優しい。切れやすい玉糸を織るために回転数が抑えられている。最初に見せてもらった糸繰りもゆったりと大きなボビンに巻かれていた。紀子さんが幼い頃から見てきた風景と聞いてきた音。

糸繰りをする紀子さん

進学とともに家を出て東京でサラリーマンとなり、3年が経った頃。「面白い染め屋に行く。一緒に行かんけ?」父親に誘われて訪れた染色企画会社で、これまで聞いたことのなかった蚕の秘めた可能性の話を聞かされた。「初めて目の前がキラキラと輝いて見えました」。

 

勤め先を退職し家業に入ると、建具や表具の問屋への卸売業だけでエンドユーザーの顔が見えていないことが問題だと気がつき、自社ブランド商品の開発に着手。2012年に開始し、わずか数年で売上の3割を支えるほどの製品群を生み出した。JOHANAS(ヨハナス)と名付けたブランド名には「城端にシルクのSをつけました。我を解き放つ瞬間をシルクで手伝いたいと言う願いを込めています」。

JOHANASの商品が並ぶ

最初から全てが順調だったわけではない。思うように販売が伸びず悩んだ時には、伝手を頼ってテキスタイルデザイナーの元に相談に出向いた。その時に言われた「あなた布との距離があるわ」という言葉から、自社を支えてきた絓絹と向き合うようになり、機場にいる時間も長くなったそうだ。多川製作所、北陸機械工業、津田駒工業の広幅を備えた機場は、2008年に見舞われた集中豪雨の被害で約半分になった。被害の少なかった場所に織機や整経機を移動させたと聞いたが、どれほど大変だっただろうかと思わずにいられない。

自由で、しなやかで、粘り強い紀子さんの商品開発を支えるのは、「お蚕さん」の存在だ。もともと養蚕は行っていなかったが、地産のシルクを織り上げたいと考え工場の一角で養蚕に取り組み始めた。私たちが訪れたときには、藁で編まれた「蔟(まぶし)」の中に、繭が出来上がっていた。「玉繭を作るには藁蔟が良いと聞いて長野まで探しに行ったのですが、市の職員の方が藁まぶしを作れるということがわかりました。そして、せっかくだからと立ち寄った五箇山で偶然出会ったおばあちゃんがつくり方を知っていたので教えてもらったんです」。蚕を育ててみると、驚くほど愛着が湧いた。繭の輝きは命の輝きそのものだと、絹織物の見え方そのものが変わってしまった。「お蚕さんの命をいただく代わりに、わたしの体はお蚕さんに捧げよう」。そう思うようになり、ますます商品開発に力を注ぐようになる。

藁蔟と繭

傍らに、黒胡椒のような粒々が入った籠があった。「これは蚕のフン。今年のはまだ香りもしっかりしいて美味しいですよ」。口に入れてみると、確かに桑の香りがほのかに漂う。臭みもえぐみもない。中国では漢方として古くから使われており、自社でできたものはミシュラン一つ星のフレンチレストランや、お菓子屋さんで使って頂いているということだった。

桑の香りがなんとも言えない

「繭を作る前には、半日くらい空を見上げているんです。それがとても神秘的で。体には半月紋と星状紋と呼ばれる模様をもち、生まれてからわずか40日で天に還ってしまう」。着物一反に必要な繭の数はおよそ3000個。一頭、二頭という数え方には、5000年前から家畜として人間を支えてくれた蚕への敬意が込められている。

 

かつて織機が置かれていた場所からは、桑畑が見える。夫の渉さんとは桑畑の土作りをきっかけにご縁が結ばれた。いまでは桑栽培からウェブサイト構築まで担う機場の一員だ。家族と、お蚕さんと。皆で力を合わせて前に進む姿は、絓絹の輝きのようにまぶしかった。

紀子さん、渉さんと晴(ハル)ちゃん

シルクジャカードの老舗 小倉織物株式会社

明治28年に創業し、戦後いち早く広幅のジャカード織に着手した小倉織物株式会社。日本の高級婦人服を支えてきた老舗企業の一つだ。後練りのシルクから出発し、現在ではコットン、ウールなどの天然繊維とレーヨン、ポリエステル、ナイロンなどの化合繊まで多種多様な素材を扱う。製品も高級裏地、服地、アウトドア用織物と幅広い。

機場には生糸も干されていた

5代目 小倉久英さんはアパレル産業の隆盛を経験してきた職人だ。機場を歩き、織機の拵えや製品の特徴を細やかに教えてくれた。その後に、ぽつりと呟いた。「昔、デザイナーは頭の中で生地から組み立てたものづくりが出来ていた。今はどこかでカットした端きれを持ってきて、これを織ってくれという」。自身のものづくり魂に火をつけるような仕事が減少して寂しい。久英さんの横顔はそう言っているように見えた。

小倉織物株式会社5代目 小倉久英さん

最近では、有名アウトドアブランドからの依頼が増えている。しなやかな質感のジャカード織は、ヨガやランニングウェアを展開するブランドに提供された。「これもジャカード織なんですよ」。そう言って見せてくれたジャケットは、一見すると普通の無地織だった。しかし、よく見てみると質感の変わる所に縫製がない。曲線のパターンに合わせて耐久性など最適な組織を設計し、織り上げられていた。小倉織物の技術が可能にしたシームレスなデザイン。胸に光るブランドロゴも、もちろん織りによるもの。織柄がそのままパターンになっているため、1ミリのズレも許されない。紋織物を得意とするジャカードで、無地を織るのは「難しかった」と言いながら、久英さんはどことなく嬉しそう。このジャケットのために「吊り込み」という仕様まで変えて生産した、渾身の一枚だ。吊り込みの変更は専門の職人に依頼せねばならず、数百万の費用がかかる。ブランドと久英さんの熱量に、私たちのテンションも上がった。こんなプロダクトは日本の機屋じゃなければできないだろう。

しかし、機屋を取り巻く状況は厳しい。昭和40年代に670軒あった機屋は令和元年で約50軒、そのうち30代の後継者は1人か2人という。平均年齢は65歳から70歳で「陸上トラック競技の第4コーナーだったのに、最後の直線に入ってしまった」と冗談めく。廃業した機屋からドビー織機と職人を引き継ぎ、これまで手がけてこなかった範囲にも挑戦するようになった。「ひらく織の活動も自然な流れでしょうね」。他産地との協働を10年以上続ける小倉織物は、絹製品の精練を丹後にも依頼している。

蓄積された紋紙

「どこでもできる仕事は「アジア四小龍」と呼ばれる台湾・シンガポール・韓国・香港に食われてしまう。だから特殊なもの、小ロット生産をするしかない」。久英さんは静かに言った。そのためには設計や機械の仕様変更に手間暇がかかり、自社工場に所有する19台のジャカード織機の稼働率は約半分だという。それでも、生き残るには必要な手立てなのだ。「例えば、アパレルの仕事は単価はいい。だけどサンプルを2 (にひき、一疋は約46メートル)送って、オーダーが来たとしても本生産で10疋くらいかな。コレクションが動くまで待つ時間もあるから、単価が高くてもむやみには仕事として取れない。市場への認知のためという側面もあります」。単価、稼働率、手間暇のバランスを取らなければ、技術力だけでは機場を支えることはできない。

 

技術を持ち市場とのバランスをとりながら、小倉織物は機織りを続けている。

記事 原田美帆 / 写真 黒田光力 

小倉織物株式会社

松井機業

石川・富山×絹織物/化合繊

お問い合わせ

お気軽にお問い合わせください。

与謝野町の織りに興味のある方

与謝野町の織りに興味のある方

産地視察希望の方

産地視察希望の方

与謝野町産業観光課
TEL : 0772-43-9012

与謝野町について知りたい方

与謝野町について知りたい方

丹後ちりめん・丹後織物に興味のある方

丹後ちりめん・丹後織物に興味のある方

与謝野町産業観光課

ぜひ交流しましょう

TEL : 0772-43-9012

お気軽にお電話ください