YOSANO OPEN TEXTILE PROJECT

京都•与謝野×丹後ちりめん/絹織物

丹後編Vol.5

先染めをひらく

2019年12月、先染め製品を手がける3軒の機屋を訪れた。丹後はちりめんの白生地産地として発展し、その名を知られてきた。同時に先染め帯地の産地としても歴史を紡いでいる。丹後編Vol.5ではちりめんから服地へ、帯からネクタイへと製品を展開し、事業を切り開いてきた機場をひらく。

ちりめんから世界のトレンドへ 宮眞株式会社

機場の扉をあけると、シャットル織機と革新織機の機音が聞こえてきた。「シャットル織機6台は全てドビー、電子ジャカードのレピアが1台と、ドビーのレピア織機が4台あります。撚糸機のダブルツイスターは2台、糊付け機は現在あまり使っていませんね」。宮眞株式会社4代目 宮﨑輝彦さんを先導に、奥へと進む。織機には白生地も先染め製品もかかっていて、極めて細い経糸に目を見張る。

この機場は約20年前に空いていた工場を買い、織機4台とダブルツイスターを導入して稼働し始めたそうだ。「現在でも出機による生産が中心で、約20台あります。織り手の高齢化も進んでいるので、この5年くらいで設備を増やして自社製造ができる体制を整えつつ、生産量のバランスを見ている感じかな」。

宮眞は天然繊維からポリエステルまで多種多様な素材を巧みに織り上げる機屋だ。製品は服地、壁紙、和装小物と幅広い。創業は明治時代初期で、ちりめんの半衿や帯揚げといった小物製造から事業を始めた。40数年前にテイジンの協力工場としてポリエステル着尺の生産を開始し、広幅織機を導入する。しかし和装の減少や昭和50年代のオイルショックに不安を覚え、ポリエステルちりめんの服地を開発。展示会への出展から販売先を増やし、協力工場を増やすほど人気が出たそうだ。「2000年に入ると生産量が冷え込み、用途転換と海外進出に目を向けるようになりました」。シルク100%の服地開発をスタートし、やがてシルクと他の繊維の交織へと展開していく。

事務所の奥にはこれまでに企画したハンガーサンプルが数えきれぬほどストックされていた。和紙や麻などとミックスされたシルクは、ハリやシャリ感と滑らかさを併せ持つ。これまでに触れたことのない「風合い」に感動してしまう。ちりめんの撚糸技術を活かした製品も得意とし、そのバリエーションの多さには驚くばかりだ。海外の高級メゾンからも評価が高く、安定的なエージェント契約も結び、売上は少しずつ増えている。

営業から生地設計まで手がける輝彦さんは、大学卒業と同時に家業へ入った。働き出してすぐの頃、プリントなどの後加工を頼んでいた得意先企業が洋装部門を閉めることになり、宮眞は従業員と在庫ごと会社を引き取る。現在の多様な生地バリエーションは、この決断なしに成り立たなかっただろう。輝彦さんはそこで知識と経験を積み、丹後に戻ってからは撚糸などの技術も習得。機場の仕事を身につけてから事務仕事へとシフトし、国内外の営業を開始した。先代との代替わりは40歳と若い。ひらく織メンバーは30代後半が多く、世代交代は目前に迫る課題でもある。きっかけを尋ねると「先代とは経営状況が安定した時に、と話していました」。知識と経験が土台を作り、海外展開の道筋が見えてきた、そんなタイミングだったのだろう。

宮眞株式会社4代目 宮崎輝彦さん

海外との取引は、数字以上に「モチベーションの問題」だとも教えてくれた。「より生地に向き合ってくれます。研鑽を重ねたバイヤーが見に来るので決断も早いし値段も通る。国内のアパレルブランドは生産の直前まで生地の仕入れをしたくないから在庫を持つ商社から買う。するとブランドが違うのに生地は同じか色違いというような状況が生まれ、デパートのフロアが似たような雰囲気になっていると感じます」。

 

絹の着尺からポリエステルの着尺へ。小幅から広幅の服地へ。ポリエステルから天然繊維の高級服地へ。時代の変遷とともに自社の技術が活きる市場を見出し、挑戦を続けてきた宮眞。世界のトレンドへと進化を続けている。

徹底した技術を武器に 小笹商店

「自分でも機拵え(はたごしらえ)をしたいと思うねん。多分やったら面白いと思うんだけどな」。小笹商店2代目 小笹昇平さんが目を輝かせながら言った。機拵えとは、要約するとジャカード装置の針に吊り下げられた竜頭(りゅうず)というフックのような部品から通じ糸、綜絖、スプリングもしくは矢金(やがね)と呼ばれる鉄芯などを結ぶ作業のこと。二階ぐらいの高さに設置されたジャカード装置から綜絖の高さまでミリ単位で通じ糸を一定の長さに調整し、1本の間違いもなく順番通りに通さねばならない。途方もない労力の塊だ。それを「自分でもしたい」という機屋に初めて出会った。「あ、でも帯用の経糸3800本くらいならやで。ネクタイの15000本はちょっと気が遠いから」。笑いながら話していたが、この人ならいつかやってしまいそうだ。

オレンジの糸や青い部品が機拵え(はたごしらえ)の一部

「継ぐ気なんてなかった」という昇平さんは、東京に就職も決まっていた。だが、事業を立ち上げた先代が体調を崩し、周囲の声もあり戻って来た。そしてたった2年半で先代は亡くなり、機場を継ぐことになってしまう。けれど「技術的に困ったことはなかったよ。親父は自分自身も我流でやってきたから、何も教えてくれなかった。“直しておけ”とだけ言われて、夜通しで修理したことが何回もあった」。同じ織機を2台入れていたので見比べながら直したそうだ。わずか2年で徹底的に鍛えられていた。しかし、周囲は若い後継者をよそに廃業をささやく。

小笹商店2代目 小笹昇平さん

「これはやばいと思って、何でも織りました」。もとは広幅織機で帯を製造していた。一度に3本、5本と織って裁断する方法で出機は100件を越す規模だったそうだ。それから、昇平さんが家業に入った年に依頼があって始めたネクタイ、車や航空機のシート、カーテンやソファの張り地…様々な物を織りこなしてきた。「何でも織れる機屋になると、発信しなくても色んなところから声がかかるようになったね。設備投資と技術を分かってくれると注文が入る」。

現在、機場には12 台のレピア織機が並び、全てネクタイを生産している。製品に合わせて織機を入れ替えてきたため、創業時の2台の織機はもうなかった。小笹商店が手がけるネクタイはデパートに並ぶ高級品ばかり。5、6社からの依頼を受けており、紋紙も糸も全てを先方が手配するスタイルだ。自社で柄を作ったり、配色をしたりすることはない。「この割り切りが、商売のセンスになっていると思う」。ひらく織メンバーが言った。ネクタイの色合いは、想像を絶するほど繊細な組み合わせで出来ている。スチール棚に並ぶ無数の糸が、そう教えてくれた。各社ごとに約350色の糸が準備されて、その中から指定色をセットするそうだ。この感覚の世界に、おいそれと踏み込まないのは当然なのかもしれない。

「これ見てみ」。広げられた織物の、なんと解像度の高いことか。織物の経糸と緯糸の交わりは多ければ多いほど細かな柄が表現できる。写真を取り込み数色の糸で表現した「写真織り」はこれまでにも目にしたことがあったが、この複雑さには驚く。「5000口(くち)のジャカードで、50センチ幅の織物に対して1本把釣(はつり)のトジを入れたんだけど、これで何か出来ないかなと思っていて」。1本把釣とは、針の数と経糸の数が等しい機拵えで、もっとも細やかな柄表現を可能にする。5000本の縦針が超緻密な世界を描き出していた。

ひらく織で、幾度となく出会ってきた「根っからの織物好き」。昇平さんも、やはりその一人だ。望んで継いだ仕事ではなかったが、腕を磨き一流の職人になった。そして自分の技術はどんな織物を生み出せるのかと情熱をたぎらせて機に向かっている。帯からネクタイへと製品を変えながら途絶えることのない機音は、どんな織物を見せてくれるのだろうか。

機場の改革者 創作工房糸あそび

カラフルなシルクテープが経緯に交わる生地、六重の組織が重厚な柄を描く生地、ふんわりとした質感がサテンシルクのイメージを覆す真綿糸のストール…。創作工房糸あそびは、特殊な意匠糸の扱いを得意とする。「うちはシルクをメインに、シャットルの強みを生かしたものづくりをやっています」。3代目となる山本徹さんは、企画・生地設計・準備工程・製織・営業までを取り回すテキスタイルデザイナーだ。

創作工房糸あそび3代目 山本徹さん

元々は西陣の賃機として着尺を製造していた。2代目 山本徹二さんは代行業というスタイルに危機感を抱き、広幅織機や整経機を導入。自社製品の生産へと徐々にシフトさせ、冒頭に紹介した「リボン織」の技術を生み出した。徹さんは生地企画会社へ就職し、学生の頃から憧れていたアパレルブランドの担当に。コレクション毎の生地づくりに奔走し、糸屋から加工場まであらゆる現場で知見を磨いてきた。そのキャリアが生み出す生地は「こんな技術がありますよ」という見本ではなく、デザイナーやメーカーが作る製品の仕上がりを見越して設計される。製織技術と企画力を併せ持つ工房には、一年に100社以上の問い合わせや訪問が入るという。

着尺から服地への展開は、卸売先の変化も意味していた。和装関連の製品を手がけるひらく織メンバーにとっては、製品もさることながら取引形態についても気になる点だ。「既存の取引先が4割、新規の注文が6割くらいかな。生産量で言うと、オリジナル製品が5割、残りの5割は企業と組んで商品開発をしているよ。下請けではなく、一緒にやりましょうというスタンス」。取引先が増え続けているという状況に、メンバーは驚きを隠せない。「うちにある12台の織機のうち、4台は企業の専属として確保している。だから、仕事のない時でも休業補償がある。織り手は1台につき1人いるから、彼らの給料を担保しないと織り続けられないことを最初に伝えるんです」。この正論をハッキリと相手先に主張できる機屋が、どれほどいるだろうか。技術という強みがあってこそだが、それ以上に「機屋をきちんと儲けられるところにしたい」という真っ当な想いが伝わる。

家業に入って5年ほどは、従来の仕事が価格競争に巻き込まれ、苦しい時代だった。「そこで、既存の取引先を全て断りました」。さらりと言われた一言に衝撃が走る。そこから1年は仕事が止まり、東京の展示会へ年に1度出展して何とか仕事を繋ぐという状況が4年ほど続く。「どうしても立ち行かなければ、前職のキャリアを活かして復職もできると考えていました。機さえ手元においておけば、きっと流れは変わると信じて」。なんという意思の強さだろう。もう1年頑張ってみようというタイミングで大きな仕事が入り、軌道に乗り出したのだという。現在は生産量、売上、利益率ともに年々上昇しているという。

 

機場には、拵えを準備中の織機が何台もあった。「綜絖の交換、筬の入れ替え、糸の刺し通し作業を2日でやって、織るのは1日。そしたら次の仕様にまた変えてという繰り返し」。小ロットオーダーを受けるとは、こういうことか。このスタイルから利益を作り出す先輩の手腕に、メンバーたちは驚くばかりだった。

 

近年では海外の見本市にも積極的に参加している。そこには2つの狙いがあった。海外市場の開拓はもちろん、そこでは日本企業のトップとも出会いがあるそうだ。買付や取引の決定権がある人たちと繋がり、こちらから営業に出なくても丹後を訪れてくれるようになる。もう一つは、「年に何回も海外へ出向く姿を、若者に見せたい」という後継者世代への旗振り役として、地方に住みながら世界と仕事ができるという可能性を示したいのだと教えてくれた。「産地は、伝統工芸になったら終わってしまうという危機感があるんです。数が残らないと産地として生き残れない」。糸あそびは、産地を次世代に引き継ぐためにこれからも改革をし続ける。

製品の変遷は、自社を取り巻くあらゆる変化を乗り越えてきた証だ。今回の訪問で実感したことはそれに尽きるのではないだろうか。自社製品を手にする先輩たちの表情は、困難を乗り越えた先にある希望を映していた。

 

記事 原田美帆 / 写真 黒田光力

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