大阪・泉州編Vol.2
命を包む織物 今新毛織株式會社
日本の毛布発祥の地、泉州。今なお日本製毛布の9割を生産する、織物産地の中でも珍しい存在だ。今新毛織株式會社は織りから染色、整理加工、縫製まで一貫生産する日本で唯一の工場。五代目 今井基樹さんの案内で広大な工場を歩いた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、巨大なシャットル織機!規格は272センチ幅に経糸が3170本、イージングモーション*1付きでビームは長すぎるのか2本に分かれている。工場にある他の織機はレピア*2だが、百貨店の販売員やバイヤーが研修で工場を訪れる時に見せてあげたらいいかなと1台だけ残してあったもの。
製品としてはキングサイズの毛布を織ることができ、外国人向けウィークリーマンションなどから注文が入る。織機サイズに合わせてシャットルそのものも大きい。尾州で目にしたサイズ感に近いと思っていたら、機料品は尾州から購入していると基樹さん。製品は違うけれど、どちらも毛織物産地。やはり抱えている課題も共通していた。昔は出機も多くいたけれど織り手が80代になり減ったこと、整経屋は一番若い人で75歳。道路を挟んで向かいに立っていた毛布工場は解体中で、高齢者向け福祉施設が建つ。けれど「国産の毛布がゼロになることはないから、中の上を狙ってこだわりのあるものを生産する。付加価値を高めて利幅をあげていきます」。力強い言葉に、ひらく織メンバーは勇気をもらっていた。
製織工場を見せてくれたのは、「かげんみ」の楠善行さん。泉州では織機の加減を見るとの意味で、職人のことを古くからそう呼んでいる。経緯(たてぬき)ともにカシミアの製品は糸切れしやすいため結び目が他の原料より多くなるが、結び目を織り込んでも最後に毛を立たせるので見えなくなること、静電気防止に「ろう棒」を「ちきり」*3に噛ませて滑りをよくすること、織り合わせ*4をする時に使う「モドシ」*5の使い方を実演してくれたりと、テンポよく質問に答えてくれる。糸の密度を尋ねると、インチ規格の答え。鯨尺*6をベースにする丹後人はそれだけでどぎまぎしていたが、すかさず鯨尺に換算してくれた基樹さんの回転の早さにさらに驚いていた。
製織の次は、一反約40メートルの毛布を連続洗絨(せんじゅう)機にかけて石鹸と水で洗う。後染めの製品は染色を経て、最も重要な「起毛」工程へ。
ドラムシリンダーが回転する機械に毛布が巻き込まれていく。シリンダーには細かい湾曲した針が付いていて、織り込まれた糸をほぐして繊維の毛羽を引き出す。毛布の織組織は「3/1(さんいち)の綾、破れ斜文 緯二重織り*7」を基本に毛羽が出やすいように設計され、何度も機械に通して少しずつ毛羽を出していく。素材・織り方・ロットや回転速度によっても毛羽の出方が異なるため何回ドラムに通すか決まりはない。あと一回機械に通すかどうか「ここが止め際」を判断するのは職人の見極め次第。以前、最高級のカシミア毛布を製造したとき「これ失敗したら一枚百万やで」と冗談めかして伝えたら「終わるまで聞きたくなかった」とベテランの職人さん。緊張感のある現場なのに漫才っぽく聞こえるのが、やっぱり大阪だ。「綿(わた)をひねって糸にしたものを、土台を残しつつ綿に戻していく作業で、やりすぎの一歩手前で止める技術が大事」。
起毛の後は、毛羽の長さを揃えてカットする「シャーリング」やアイロンを当てて光沢感を出す「ポリッシャー」で仕上げて縫製へ。いくつもの巨大な機械が並ぶ工場は維持費だけでも相当な額になる。そのため薄利の仕事でも受けて回しているが、基樹さんには信念がある。「毛布を作る技術と設備を絶やしてはならない」。災害の時、水と食べ物の次に必要になるのは毛布。現在は8割が輸入だけど、もし輸入が止まるような事態が起これば、命を守る毛布が手に入らなくなってしまう。「食料自給率と同じくらい大切なことに、気がついて欲しい」。
家の中の、さらに布団の中にあって、暖かく身体を包んでくれる毛布。安心を象徴する織物が、いまも大阪の下町で作られている。
*1 ビームから出てくる経糸の張力を調整する装置
*2 杼(シャットル)が往復運動をするシャットル織機と違い、レピア(矢)が緯糸を引っ掛け、バンドによって緯糸を端まで引っ張る方式の織機
*3 ビームの別名。産地によって様々な呼び名がある。他に芯棒や緒巻きともいう
*4 織物に不具合が起こったとき、問題があるところまで緯糸を抜き取って織り直すこと
*5 織り直すところまで紋紙を戻すための装置。正式名称は誰も知らず、通称で呼ばれていた
*6 布を測るのに使われてきたものさし、その単位。一尺は約37.8センチ
*7 織物の三大組織である綾織の一つ。二重織とは表面と裏面の2枚の織物を同時に織ったもの
加速し続ける技術開発 井嶋織物工業
工場の机に広げられた毛布は、手にとるとふんわり軽く、柔らかい。ストレッチ組織やワッフル組織は保温性や風合いの効果を高めながら、意匠としても効果的で膝掛けやストールとしても重宝しそうだ。「こういう織物は軽寝具と分類されています。うちが創業した時には、既に老舗の機屋と問屋がしっかりと繋がっていて入る余地がなかった。変わったものを作れば取り扱ってもらえるから」。日夜、新しい織物の試作開発に取り組む創業者 井嶋丈典さん。サンプルに貼り付けられたタグには「試作1930」の表記が。001から始まった試作は1年に60を超すペースで続けられ、これまでに複数の特許を取得している。
「フッと思いついた時に、少し考えてパッと作る。うまくいく時もあればダメな時もあるけど、数をやらないと。あかんかったら、そこを改良したらいい」。以前は自社でも織機を所有していたため、思いついた時に試験ができた。しかし2015年、火災により自社工場が全焼。一時は廃業も考えたが、そこへ人情の輪が待ったをかけた。和歌山の染色工場が閉鎖するという知らせが入り、機械設備を引き継ぎ再起をかけることになったのだ。一年も経たないうちに操業を再開。
私たちが工場に到着してから、一瞬の隙なく組織と製品について語る丈典さんの回転速度に最初は面を喰らった。しかし話を聞く内に、このスピード感無くして井嶋織物工業の発展はなかったのだと思い知らされた。「いまはニットの技術がすごい。このままでは織物はニットに負ける」。業界を見回し、自らが研究すべき分野を見つける。開発意欲と焦燥感の両方がせめぎ合って、手を止めることなど出来ないのだという思いが伝わってくる。
現在は製織後の整理加工を自社工場で行っている。起毛、毛捌き、シャーリングと通常の毛布と同じ工程を経た後に「シュリンク」と呼ばれる「熱乾燥収縮」工程が加わる。これこそが、井嶋織物工業の誇る伸縮織物を生み出す。熱によって収縮する糸を経糸に一定の割合で組み込み、織り密度をゆるく織る。すると、熱によって縮んだ糸が組織の中に大きな空間を生み出し、空気の層を作る。「千亀利(ちきり)織®︎」と名付けられた技術は、地域にある岸和田城の別名「千亀利城」と織機のビームを「ちきり」と呼ぶことをかけて命名された。
経糸による一重組織を片面に、緯糸による二重組織をもう片面に設計してあり、織り密度の調整や組織の組み合わせ、素材によってバリエーションが広がる技術をブランケットや敷きパッドなどの製品に展開する。だが、寝具商社への卸では価格帯を相場よりあげることは極めて難しいと言う。「寝具は目方(めかた)で相場が決まっているから、織り組織で工夫しないと付加価値がつけられない。検査機関での実測数値の測定など頑張っているが、高気密の住宅が増えて軽寝具自体の出荷量も減っているから」。
丈典さんの言葉に一層熱がはいる。「この技術は他産地でも応用できます。寝具からジャンルを広げる仲間を増やしたいと思っているのです。うちは粗物(あらもの)だけど、丹後の絹と密度なら新しい発想で開発できるのではないでしょうか」。約4000本の経糸を泉州では幅2メートルに、丹後では38センチ前後に組む。密度の差は一目瞭然だが、どのような製品ができそうか即答できるメンバーはいなかった。伸縮組織の技術も、他産地の機屋の熱量も、業界への危惧感も、どれもカウンターパンチの連続だった。
「絹の付加価値はすごいよ」。「丹後の高価格の販売層が羨ましい。うちではどうやってもそこに繋げられない」。「まだ1,000軒近くも同業者があるのですか」。
今回、訪れたほとんどの人から丹後産地への賞賛と羨望ともいえる言葉を受けた。絹の一大産地であること、産地としての規模が大きいこと、多くのプライオリティを持つ丹後。その価値にメンバーはどれだけ気がついていただろうか。もう無自覚ではいられなくなった、泉州への旅。
記事 原田美帆 / 写真 松本潤也
今井 信一
泉州視察に行って感じたことは職人としての技術だけではなく、聞き手をひきつける話術のうまさだった。例えば、僕たちのような同業者に対して自社の説明や、商品のアピールはもちろんの事、雑談も織り交ぜながら、自然と距離感が近くなる伝え方、話し方をされていた。これからの職人は技術も大事だが話術も必要だと思った。僕は話すのがあまり得意ではないので、技術と共に話術にも磨きをかけていきたい。
梅田 幸輔
今回、初めて産地交流に参加させて頂き、いろいろと刺激を受けました。丹後と同じように産業に携わっている方の高齢化は顕著で、それは丹後以上のようにも感じました。その中でも、産地の強みを生かした商品作り、そして完成品までなるべく自社で手がけることによって、より消費者に近いところでオリジナルブランドとして商売していくやり方を見て本当に感銘を受けました。
西馬 良樹
後継者がなかなかいない、高齢化の話をよく耳にして丹後の産地と同じだと感じました。また現状を打破するために色々と取り組まれていて感動し心を動かされました。私はものづくりという仕事に直接携わっているわけではないですが、今以上に加工の質を高め新しい加工を見つけていけたらなと思います。
羽賀信彦
請負の仕事だけでは厳しくなっていて、一部の製造ラインを自社で企画・デザインをして流通を見直し直販へシフトされていました。製品の違いはありますが見習いたい部分です。前に突き進んでいくために技術を磨き、経営戦略を立てる、そんな姿が強く印象づけられました。
堀井 健司
丹後と同じく、機屋が減少していく中、自社で付加価値の付いた商品を開発することにより現状を打開していこうとされていたことが印象に残りました。