YOSANO OPEN TEXTILE PROJECT

福岡•筑前/筑後×博多織/久留米絣

筑前・筑後編Vol.2

博多の街から高速道路で30分、久留米絣の産地へ走った。インドを発祥とし、さまざまな国と地域に伝わった絣。日本国内でも備後絣、伊予絣など各産地で発展を重ねた。柄のかたちや大きさ、色合いはそれぞれだが、共通するのは模様がかすれていること。紺地に白い絣柄が入った日本独自の絣柄「紺絣」は、18世紀末にここ久留米で12歳の少女 井上伝が考案したことから「久留米絣」と名がついた。

コミュニケーションとしての織物 下川織物

青空の下、紺と白に染められた糸がはためいている。「絣は農作業のようなもの。天気に合わせて乾かして、雨になれば軒先にしまって」。下川織物三代目 下川強臓さんの案内で機場の中に入った。

20台の豊田製Y式自動織機は、これまでに見た力織機の中で一番小さい。一つのモーターからベルトを使い全ての織機を駆動させてあって、シャットル織機のシンプルな動きが際立って見えた。丹後でも昔は見かけた風景らしい。織機にかけられた経糸には規則的に白いところが浮かび上がっている。「トング」と呼ばれる絣織専用の木管をセットしたシャットルが走ると、緯糸にも白いところがあって、経糸の白と重なった。経にも緯にも絣染が施された「たてよこ絣」が織りあがっていく。ちなみに、「トング」は丹後ではシャットル内部に取り付けられた部品のことを指す。産地が違えば、ものの名前も違う時があるようだ。

天井にモーターベルトが並んでいる
経糸に浮かび上がる白い点
トングに巻かれた緯糸

下川織物の間丁は短く、経糸はそれほど張っていなかった。柔らかな風合いを出し、柄がずれるのを防ぐための拵えなのだという。加えてドロッパーも付けられていない。もし経糸が切れたら、経絣の柄に合うように経糸を繋がなくてはならない。ずれてはいけないのは緯糸も同じ。もし傷ができたら、トングに巻かれた緯糸を織り合わせるところと同じ柄まで解かなければならない。トングに巻ける糸量は少なく、管替えは早いもので5分に一度。1人の織り子さんが面倒を見られる織機は4台、管替えの頻度が違うものを組み合わせてあるのだという。素朴な風合いの裏に、こんな手間がかかっていたなんて。

機場の奥には整経機と、それとは別に絣柄を合わせるための木製ドラムが並び、職人が慣れた手つきで糸をさばいている。それは整経後に絣染めをほどこした経糸を、柄を合わせながらビームに巻いているところだった。二度の整経を経て、ようやく経糸の準備が完成する。緯絣であれば緯糸にも畔取り、つまり整経が必要になる。整経して・染めて・解いて・柄を合わせて…およそ誰もが目にしたことがあるであろう綿の絣、昔から身近な庶民の衣服だから価格だって高くはない。そこに、これだけの手間と暇が費やされていることなんて想像したことがなかった。

その価値に、世界の目が向き始めている。明日からパリ出張だという強臓さんはスウェーデンやオランダ、パリと世界を駆け巡り、デザイナーやアーティストとのコラボレーションプロジェクトを手がけている。「アーティストが提示する図案の奥にある、表現したいことの核を理解しないと出来ない。僕は英語があまり喋れないので、経糸と緯糸で会話をしています」。

下川織物 下川強臓さん

大学卒業後に家業に入り、絣の技術を習得した強臓さん。衰退していく産地の中、問屋との厳しい取引から抜けることもままならず将来性に不安を募らせていた。「そこから勉強したんです。単純に」。パソコン操作もできなかったが、職人に向けて開講された支援講座に飛び込み、マーケティングという手法も知った。世の中にある商品がターゲットを見定めて開発されていること、売れる商品には物語があるということ。6~7年前にホームページを開設したときには「年齢の高い絣愛好者だけが見るページになるのかもしれない」と半信半疑だったが、インスタグラムをはじめとしたSNS発信がメディアの目にとまり、フォロワーが工場見学に訪れるようになって…今や年間1500名を超える見学者を迎えるようになった。下川織物にとって、見学は単なる観光ではない。ファンとの距離を縮め、新たなビジネスパートナーと出会う場なのだ。各国とのコラボレーションもここから生まれた。

ここに至るまでは、いろいろと苦しいことがあったと話してくれた。産地のこと、後継者のこと。どうしたらいいのかは誰も言ってくれない。現状で回っていることは自分の居心地がいいのか、周りは幸せなのか。40歳台にして、ようやく「やりたいことを表現できる部分を見極めて」自分のかたちを作り上げた。地域社会の一員として消防団やPTAなど地域社会の一員としてさまざまな役割を果たしてきた姿にも、ひらく織メンバーは勇気づけられていた。

 

下川織物の進むはるか遠い道。それはいつの間にか現れたものではなく、一歩ずつ切り開いて行ったもの。誰も口にしなかったが、皆がそう思っていることが顔に現れていた。

久留米絣徹底解剖! 久留米絣広川町協同組合

久留米絣には、国の重要無形文化財に指定された伝統的な製法と、機械を使った製法の2つがある。前者は手で粗苧(あらそう)を使って括る「手くびり」、天然藍による「藍染」を経て、投げ杼の手機織機で織り上げられた工芸品であり、後者は近代産業が可能にしたプロダクトと言える。機械化されたと言っても、その殆どに人の手が加わるアナログなものづくりが続けられている。

久留米絣の織元は、染色と絣括りを外注するところが多い。染色はボイラーなどの設備と排水問題のため、そして絣括りにも専用の機械と熟練した技が必要になるためだ。絣括りの仕事は図案の通りに糸を染めるため、染めない部分に糸を括り付けて防染し、染め屋に出して戻ってきたものから括り糸を解くところまで。括り糸を解いてもノリで固まった糸はバラバラにはならない。この状態で機屋に戻し、それぞれの工場で乾燥と柄合わせが行われる。

 

広川町久留米絣協同組合は産地に残るたった一つの絣括りの工場。ベテラン職人であり代表理事を務める冨久公博さんと工場長 園木新一郎さん、内田勝也さんが迎えてくれた。若い職人2人を前に「息子世代が入ってくれて希望が見えてきました」と話す公博さん。新一郎さんと勝也さんはそれぞれ緯糸、経糸の括りを担当する。緯糸と経糸では機械が違うため、それぞれを専属で担っている。

広川町久留米絣協同組合代表理事 冨久公博さん

最初に経糸の工程を見せてもらった。機屋が預けた糸は、整形後にビームから外されてぐるぐる巻かれ、ボールのようになっている。まず木製の大きなドラムに巻きつけ、糸を自動で括る機械に仕掛ける。この機械が登場し2005年までは全て手作業で行われていたが、作業効率が飛躍的に上がったことで久留米絣は生き残った。

 

ドラムから伸びる経糸は8本の束に分割されていて、1束ごとに括る長さが設定でき、全部で8種類の絣括りが出来るようになっていた。

括り糸をセットした管は、家庭用ミシンのボビンの形に近い。この管3つを1セットとして同時に回転させ、経糸を括る。括った糸は4つの滑車が連動して巻き取る。括る部分の長さに加えて括らない部分の間隔も1束ごとに違うので、送り出し幅の調整も一箇所ずつ手作業で行う。強力粉から作るノリに浸した括り糸の管替えも、滑車から時々外れる糸を解く作業も、全て1人でつきっきりで行っている。

続いて緯糸の括り。緯糸は経糸ほど長くないため、小さな滑車と竹竿にかけて始める。括って巻き取るという流れは経糸と同じだが、今度は緯糸の1往復を「1(いき)」と呼ぶ独特の単位も出てきた。緯糸がシャットルによって往復する幅をきっちり設計しなければ柄はどんどんずれてしまう。例えば「26行は括らずに14行を括る」という設計であれば52越分は染めるので糸を括らず、そこから28越分を括るという作業になる。柄が細かくなるほどに時間がかかり、190行つまり380越で8時間かかったことも。括りの設計にはパソコンソフトを使い、機械と連動しているが丸一日かかりきりだ。それで正当な工賃が担保されているのだろうか…。絣製品の単価が頭をよぎる。

手作業で括っていた時は右手で糸の束を引っ張り、左足が括る位置を調整する台車を動かし、右足のペダルを踏むと右回転で、左足のペダルを踏むと左回転で括っていた。その名残で、括ることを「踏んでください」という機屋さんもいるのだそう。

染色から戻ってきた糸は、工場の奥に設けられた広大なスペースで括り糸を解く。糸を出来るだけ均一なテンションに張り、モーターを使って一本に繋がった括り糸を引っ張る。右回転、左回転と交互に括っているので、スルスルと次へ次へと解けていく。

どうしてこの職場へ?括り職人になって10年以上経つという新一郎さんに尋ねた。「いろんな仕事をしてきて、専門的なことを身につけたいと思うようになって。伝統工芸に関わろうと思って役場に連絡したら、理事長を紹介してくれたけん」。彼は間違いなく産地のキーマンだ。気負ったそぶりを全く見せない2人の心に、久留米絣の火が灯っている。

地域文化の発信基地 うなぎの寝床2

2018年9月、ひらく織「東京・江戸編」で訪れた「うなぎの寝床 東京新川分室」。久留米絣のもんぺが並び、小幅織物の反物でも現代のプロダクトとして通用するのを目の当たりにした。うなぎの寝床が本店を構える八女市は江戸時代に城下町として発展し、現在も手すき和紙、仏壇、提灯などを手がける工房があり伝統工芸の集積地という歴史を伝えている。地方に広がるものづくりの可能性を求めて、暖簾をくぐった。

始まりは2012年。「九州ちくご元気計画」という雇用創出を目的とした地域活性プロジェクトのディレクターとして、現うなぎの寝床代表の白水高広さんと取締役・バイヤーの春口丞悟さんが就任。販売促進やものづくりのサポートを行ううち「この地域のものづくりを地元で見られる場所がない」と気が付き、「九州ちくごのアンテナショップ うなぎの寝床」を立ち上げた。少しずつ取り扱い商品を増やし、今では九州北部地域を中心として伝統工芸から工業製品まで100件以上の作り手の製品を紹介している。

主力製品であるもんぺは「もんぺ博覧会」というイベントから生まれた。かつては「もんぺを作り始めたら倒産する」と言われ、残反処理の役割が大きかった。しかし柔らかな風合いが気持ちいいもんぺは、軽量で速乾性があり機能性も優れていた。少しだけ細身にしてファッション性を良くした現代風もんぺはメディアに取り上げられ、展覧会は大成功。半信半疑だった機屋も翌年から乗り気になって開発に取り組む。絣といえば柄こそアイデンティティと思われがちだが、シャットル織機による着心地の良さに着目したうなぎの寝床は無地を押したのだという。そこで相性が抜群だったのが最初に訪れた下川織物。先代の頃から無地機が織れる生産体制を整えており、力織機ながら手織りの風合いを追求してきた。店頭に並ぶもんぺは、従来の久留米絣に止まらずフィンランドやオランダのデザイナーとコラボレーションした柄や、遠州産地で訪れた「HUIS」の生地など幅広い。絣柄や生地の特性が見比べられるようにと商品を展開させている。

同じコンセプトで開いたもう一つの店舗が「旧寺崎鄭」。八女本店から歩いて3分ほどの位置にある旧家をリノベーションしたスペースには、日本や世界のプロダクトが並ぶ。niime tamaki、にじゆら、これまでにひらく織で訪れた産地の商品もあった。「リファレンスストア、参照館として各地の良いものを比較できるように商品を選定しています」。この日案内してくれた渡邊令さんは翻訳とリサーチャーとして「地域文化を発信」している。

 

ものづくりは出口を担うパートナーなくして成り立たない。作り手との関係を真面目に積み上げ、伝える手法、継続する手立てを構築できる存在が日本のものづくりの鍵となるだろう。

丹後と共通の織機を使い機場の雰囲気も近かった博多織と、未知の工程が続いて驚きの連続だった久留米絣。どちらの機場も、生き残るための挑戦に満ちていた。「自分のやりたいことをやるときは苦しみも伴う。けれど、その先に何かあると思ったら頑張れるよ」。下川織物 下川強臓さんのメッセージをはじめ、少しだけ上の世代の機屋から背中を押された旅。

 

 記事 原田美帆 / 写真 今井裕二 徳澤千夏

今井信一

今回博多・久留米の視察では、行動力と発想の転換の大切さを学んだ。博多では、会社がピンチの時に、今までやってきた事も継続しながら、新しい事に挑戦し、それを実現されたという話を伺い、その行動力に驚いた。久留米地域では久留米絣が主流で、経糸に柄をつけて加工されており、丹後地域とは違う経糸の加工を見ることができ、経糸の多様性を知ることができた。丹後で受け継がれてきた伝統を大切にしながら、様々な可能性に目を向け、柔軟に取り入れていくことも大事だと思った。

今井裕二

産地として、丹後より一世代早く転換期が訪れたように感じ、またその転換期を乗り越えられ、若い織手やデザイナーの方も携わる強い地域だと感じた。お伺いさせていただいた、いずれの企業も戦略、コンセプト、軸のある考えを持っておられ、優れた技術による商品が世の中に出るまでを、特色のあるカタチでデザインされており、勉強させていただいた。

小池聖也

久留米絣と博多織の設備を重点的に見ていた。絣の織機は木間は生産していない生皮ピッカーを使われていたし、機料品不足の問題は丹後と共通点が多い。協力しあえる部分がありそうだと感じた。

堀井健司

博多織、久留米絣の現場を見れたことは貴重な経験でしたが、それ以上に従来の枠組にとらわれることなく、自由な発想、積極的な行動によって活路を見出そうとされている機屋の方々の話を聞かせてもらえたことが何よりの収穫でした。

うなぎの寝床

下川織物

ひらく織 東京・江戸編Vol.1

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