YOSANO OPEN TEXTILE PROJECT

東京・八王子/埼玉・所沢×ファッション

東京・八王子/埼玉・所沢編Vol.1

新横浜からJR線快速に乗って約40分、「桑都(そうと)」の美称を持つ八王子に降り立った。駅前はテナントビルが並び立ち、行き交う人は多い。さすが東京の一部だ。八王子産地訪問は2回目になる。前回はファッションテキスタイル研究所所長 宮本英治さんを訪れた。元みやしん株式会社代表取締役として、日本のファッション業界の一時代を担った職人だ。その時の様子は「ひらく織 東京・江戸編Vol.1」をご一読いただきたい。

八王子駅前の工事看板に「マルベリーブリッジ」、桑の橋という名称を見つけた

江戸・東京から最も近い産地という地理的条件はその形成に大きな影響を与えた。平安時代にはすでに絹織物や生糸を租税とし、室町時代には産地としての歩みを始める。江戸時代には甲州街道の宿場町の一つとして­栄え、市が開かれるようになった。周辺の村から絹織物や生糸が集められ、また先進地であった桐生や足利の技術も伝わる。1859年の横浜港開港により、海外への貴重な輸出品として生糸の取引が開始されると、養蚕が盛んであった八王子には群馬・長野・山梨などからも大量の生糸が集まり、一大集積地として発展した。

 

大正時代に入り電力が普及したことで、山間部の農家による手機生産から市街地での力織機生産へ、八王子の織物は工業化の道を進んだ。第二次世界大戦では機械供出や八王子空襲による工場の焼失を被ったが、戦後に復興しガチャマン時代を迎える。主力製品は先染めの着尺からネクタイ・洋装へとシフトし、ピーク時には日本で生産されるネクタイの6割を生産していた。しかし他の工業の進出や都心への人口流出、人手不足による山梨産地などへの出機化により徐々に機音を減らしてく。

 

現在、がんど屋根の工場は住宅街に飲み込まれてしまったかのように見える。だが路地を歩けば機音は続いていた。都心からの近さと技術力は多くのデザイナーを引きつけ、独自のテキスタイルを生み出し続けているのだ。

一方、埼玉県の所沢産地は明治時代にそのピークを迎えている。江戸時代には狭山丘陵周辺の農家の副業として、縞木綿や絣木綿が生産された。明治時代に入り輸入糸や高機が導入されると最盛期を迎えるが、市場の変化や他の絣産地との競争もあり、生産量は減少していった。現在は3軒の機屋が操業を続けている。機音は少なくなったが、有名ブランドからのも継続したオーダーが入る魅力ある製品を生産している。

工芸とハイファッションと電子部品
澤井織物工場

木枯らしの吹く八王子を郊外に抜ける。少し細い道を入ったところに、洋館と瓦葺きが合わさった建物が現れた。有限会社澤井織物工場の入り口はノスタルジックな物語に登場しそうな趣だった。

3棟の機場には透けるような薄手の織物から子どもの指ほどもありそうな太い経緯糸の織物まで様々な製品がかかっている。「これから来年の秋冬物サンプルに取り掛かるので、準備中の織機が多いのですが」と少し申し訳なさそうに案内をしてくれたのは澤井紘美さん。大学で繊維材料を学び、家業の機場に入って約14年になる。

澤井紘美さん(写真左)に説明を受けるひらく織メンバー

1台として同じ製品がかかっている機がなく、そのどれもが唸りたくなるほど特殊なものだった。昔は男性向けの着尺を生産していたが、現在の主力製品はストールだと言う。「時々は服地も手がけますが、八王子はネクタイ製造が多いのでうちは特殊な方だと思います」。30年ほど前に友人が帯揚げをストールとして使っているのを見て、お召用の強撚糸で楊柳のストールを織り始めたのが転換点となった。その頃から、先述の宮本英治さんとも共同して広幅化や製品のバリエーション展開に挑戦してきた。

取引先のブランドやメーカーは国内の企業が中心で、リピーターが多い。「ロットはどんな規模になるのですか?」という質問に「ストールの長さが仕上がりで2メートルとして、30枚だったり100枚だったり。お客さんによります」。これから織り始めるというサンプル群にも、ひらく織メンバーは興味津々だった。その準備のために機が止まっている状況は、日々ほとんど織機を止めることのない自分たちの機場とあまりに違うからだ。

サンプルの場合は1、2本の制作に対して、糸の手配から糸繰・整経・製織・整理加工の費用がかかる。そのため、相応のコストはかかるが「メーカーの方にもご理解いただいています」という説明にも驚きを隠せないでいた。

 

仕事の外注先はさまざまな産地に繋がっていた。糸染めは私たちも訪れた京都・西陣のにしき染色株式会社、糸は尾州の東和毛織株式会社、機料品は小松や山梨、撚糸は新潟、製織の協力工場は小松・福島・山梨…とまさに日本を縦断している。8年ほど前から八王子産地内で完結するのが難しくなってきたのだという。

技術に関して言えば、織機好きのメンバーも「見たことがない」というギアの組み合わせ方に飛びついていた。織物製品の価値を支える技術がそこかしこに詰まった機場では、20代の若いスタッフも働いていた。武蔵野美術大学と文化服装学院の卒業生で、学生アルバイトからの入社になる。この日は不在だったが、そうして10年以上務めている凄腕のスタッフもいるそうだ。

若手スタッフが活躍する

織機はシャットル織機が10台にレピア織機が1台、そして手機による生産も行っている。経糸、緯糸ともに銅線を使った織物はコンピューターの静電気防止用資材になるらしい。「約25年前に始めて、織れる枚数は月に200枚くらいでしょうか。なかなか量は作れませんが」。最近では電圧を測る装置にも使われるようになり、需要が続いている。

銅線がセットされた手機
織り上げられた製品

ざっくりと織られたマフラーはニードルパンチによって結合され、独特の表情をしていた。「これは5000枚くらい織ったと思います。ニューヨーク近代美術館(MoMA) に展示されたことがあって、コンスタントに出るんですよ」。手機による少量生産は、製品の特殊さを強みにして継続性のある仕事になっていた。

25年前にニューヨークの展示会に出したとき、いろんな人種の人がいる場所だからいろんな織物を持ってきてと言われたんです。その多様性を見て、何でも織ってみようかなと思うようになりました」。澤井織物工場4代目 澤井伸さんは、伝統的工芸品「多摩織」の担い手でもある。多摩織は八王子市とあきる野市で生産される「お召・紬・風通織・変わり綴・綟(もじ)り織」という5種の織物で、その製造方法にも細かな条件が指定されている。代々受け継がれた見本帳には絣や紬の美しい裂があった。「着尺を織っていたんだ」。現在の多種多様な製品群に圧倒されていたひらく織メンバーだが、そのルーツは和装にあるということを見せてもらった。一歩一歩の積み重ねが、機場を進化させたのだ。

澤井織物工場4代目 澤井伸さん
見本裂帳に産地の歴史が見える

製品はものごとの多様性を受け入れてきたことの現れなのだろう。時代に応じて製品も、織機の仕様も、取引形態も変化させてきた。織物よりもしなやかなスタンスが、ここにはあった。

 

記事 原田美帆 / 写真 高岡徹、黒田光力

ファッションテキスタイル研究所を訪れた「ひらく織 東京・江戸編Vol.1」

にしき染色株式会社を訪れた「ひらく織 西陣編Vol.1」

東和毛織株式会社を訪れた「ひらく織 尾州編Vol.2」

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