YOSANO OPEN TEXTILE PROJECT

京都•与謝野×丹後ちりめん/絹織物

丹後編Vol.10

「関連業」をひらく 後編

織物の設計データ(紋紙)はダイレクト、ジャカード、綜絖を通して、原材料の糸を制御する。その糸にも、織機にかけられる前の準備工程がある。

 

糸から見つめる産地の姿 大橋撚糸

「僕は天国から地獄まで見てきた」。大橋撚糸代表 前田武司さんは1974年に家業に入った。和装の繊維業界がピークを迎える数年前、まさにガチャマンの時代だ。「うちにも織機は多い時で120台あって、当時そのくらいはザラだった」。3桁もの織機を稼働させる工場は、現在の丹後産地では数える程だ。先代が機屋として創業し、1975年過ぎに撚糸専業へ移行した。そのきっかけの一つは、現在も工場として使われている建物、小学校の講堂を競り落したこと。「この大きな空間をどう使おうかと考えて。そのころ丹後には専業の撚糸屋もなかったしね」。

大橋撚糸代表 前田武司さん

丹後産地に撚糸屋ができる前は、ほとんどの撚糸が北陸から入ってきた。加賀、小松、十日町など他産地も北陸の撚糸を使用し、全国で使われる撚糸の8割は北陸産と言われていたらしい。北陸の撚糸工場へ視察に行った時には「丹後では見たこともない大きな撚糸機があった。何トンもの糸を一度に撚糸にかけてしまう、まったく規模が違った」と驚いたそうだ。最盛期には丹後の撚糸屋も120軒ほどまで増え、「1976年頃には1ヶ月で70俵は潰した。寝ないで仕事するから“ねんし”って言われるくらい忙しかった」というほどの活況を見せた。1俵は60キロなので70俵は4200キロ、4.2トンもの絹糸を撚糸機にかけていたのだ。2021年現在、反物の生産量はピークの3%になり、撚糸の仕事も激減してしまった。

「撚糸工業連合会」の会員であった武司さんは、全国の撚糸事業者とつながりを持ち、交流を広げていく。その中で、山梨の会社から特殊な撚糸の依頼が入った。ストール用の撚糸として継続的に生産し、自社生産量の20%から徐々に割合が増えていったが、リーマンショックで停止してしまった。しかし、それまでちりめん用の撚糸しかなかったところに新しい製品が加わったのは大きな変化だった。そのほかにもネクタイ用の糸など、撚糸のバリエーションは少しずつ増えていった。

 

工場を歩き、撚糸の工程を教えてもらう。入荷した糸は40℃くらいの湯に数時間漬ける。このひと手間をかけると生糸に柔らかさが生まれるそうだ。次に2階にある干場にかけて1週間ほどかけて自然乾燥させる。

下準備の済んだ生糸は、指定本数に合わせ、撚りをかけてゆく。素人には、細く白い糸が何種類もの機械に吸い込まれ、回転してゆくさまを追いかけるだけで目が回る。途中で切れた糸をつないだり、巻き終わったコーンを交換したり、異常がないか見回ったり、常に人の手が入りながら撚糸は行われていた。完成した糸はコーンに巻いて出荷される。「うちの工場長は僕の奥さんだよ。何をするのも一番早い」。武司さんは婿入りだったため、子どもの頃から糸に触れてきた朝子さんがエースというわけだ。

糸を操る前田朝子さん

「八丁撚糸以外ならなんでも作るよ」。ちりめんに欠かせない湿式の八丁撚糸は設備がないため作れないが、壁糸や経糸など技術を必要とする撚糸には自負がある。特に、経糸の撚糸は緯糸に比べて高い精度が必要になり、自家撚糸をしている機屋も経糸の撚糸は撚糸屋に頼むことが多い。その理由を前田祐司さんが教えてくれた。「経糸の撚糸はイタリーを使います。一度始めたら1週間から10日は回し続けるので、万が一トラブルがあった場合のリスクが高い。そうならないよう、ベルトや油壺の管理に気をつけています。ボビンに巻いてから検品の手間もかかります」。祐司さんは家業に入って約10年。産地を担う若手として、ひらく織メンバーとも仕事で関わっている。

前田祐司さん(右)

「伝統工芸ではなく地場産業として生き残らないといけない」。産地の変化を見てきた武司さんの言葉に力が入る。企業、関連業、従業員、地域経済…地場産業はたくさんの要素を含み、“産業”としての規模を維持しなければ関連の事業者が生き残れない。もし関連事業者が無くなってしまったら、機屋も仕事を継続できないのだ。

 

細い生糸のその先に、産地の未来が繋がっている。

経糸が上下に開口し、その間を緯糸がシャットルで交差する。その次に「打ち込み」という動作がある。筬という道具で緯糸を織前に打ち込む。

銀の櫛を磨き続けて 田中金筬店

「うわぁ、いたたた」。「ひゃあ〜大丈夫ですか」。悲鳴にも似た声が漏れ出た。銀色に光る櫛のような「金筬」に、歯科医が治療で使うような道具をぐいっと差し入れて見せる。田中金筬店2代目 田中美佐雄さんはリアクションに喜んで、さらに根元の方まで道具を移動させた。「筬はこうやって直すんだよ」。

田中金筬店2代目 田中美佐雄さん

1000枚を超える「羽」が緻密に並べられた筬は、経糸がその隙間を通ることで織物の幅を一定にする役割を果たし、シャットルが通した緯糸を打ち込む働きもする。筬羽の均一な並びが、そのまま製品の仕上がりに直結する重要な部品なのだ。わずかな傷が製品に縦筋となって現れるので、筬の羽が開かれることに耐えきらぬという心の叫びが飛び出たのだった。

 

田中金筬店は与謝野町幾地地区を中心に、特製金筬の販売と修理をしている。美佐雄さんが筬直しを、奥さまの千穂子さんが「箔巻(はくまき)」の仕事をそれぞれ手がける。箔巻とは、和紙に金箔が貼り付けられた箔糸をボビン状に巻きつける工程をいう。中空の状態に巻きつけ、専用のシャットルにセットして使われている。箔糸がねじれないように、形を崩さないように、張力の調整や糸の走りの確認が欠かせない。とても繊細な準備工程だ。

田中千穂子さん

先代 源次郎さんは昭和8年に大手金筬店の丹後支店開設に伴い、店長として丹後にやってきた。戦争など社会情勢で廃業となり、終戦後に織物会社に筬職人として入社。しかし、その会社は火災により廃業。またしても失業してしまう。そして昭和29年、幾地地区に田中金筬店を開業したのだった。美佐雄さんは婿養子として入籍し、技術指導を受けて技を磨いた。千穂子さんは役場への勤務を経て家業の筬修理の手伝いを始める。箔巻の仕事は昭和58年ごろからはじめ、現在も婚礼衣装の打掛や高級帯などを生産する企業から注文が続いている。

 

冒頭で見せてくれた道具は、筬の修理に使うための真鍮を加工した手製のものということだった。S字カーブひとつも、角度や長さなど必然的なかたちをしているのだろう。軸に巻きつけられた紐の表情に、何万枚もの筬羽を直してきた時間が現れていた。「ちょっとそこに立って踏ん張ってみて」。美佐雄さんが直立したメンバーの体を揺らす。「それじゃ踏ん張れないやろう。膝を落として力を入れないと」。冗談めかして、筬の形状も真っ直ぐではなく、わずかに中央にかけて八の字を描くようになっていることを教えてくれた。筬羽を磨いたり、筬目を揃えたり、錆取りなどをした後は、竹ヘラで筬羽を押さえつけながら中央に向かってしごく。この作業で、わずかに傾斜がつき、経糸の張力に負けない筬に仕上がるのだという。美佐雄さんは器用に左右の手で道具を扱う。若い頃に器械体操で鍛えて両利きになったそうだ。

昔の筬は羽の上下を囲む「枠」が半田付けで止めてあって溶かして外すことができたけれど、最近のものはボンドで止めてあって外せないこと。筬の素材はC-45、スチール、ステンレスがあるがC-45は今はほとんどなくなったこと。錆防止にはシッカロールを布に取ったもので拭いておくとよいこと。筬にまつわるあれこれの知識を教えてもらった。新品の筬はビニール袋に入れた状態でガラス棚の中に縦向きに立てかけてあったが、これにも理由がある。縦向きか横向きかで、錆のつき方が異なるのだという。「ここは湿気を断つために、栗石*2を厚さ30センチほど敷き詰めた上にコンクリートを流してあるから大丈夫だけど。機場では縦向きに置いた方がいい。ぜんぜん持ちが違うよ」。ひらく織メンバーも筬の錆取りや錆防止にはそれぞれ苦心してきた経験があるようで、そうかと頷いていた。

器用な腕、作業への集中力、磨き抜いた技術。どれひとつ欠けても、筬直しの仕事はできない。美しい織物は、美しく光る筬が生み出している。

*2割栗石ともいう小塊状の石材

筬をはじめとして、織機にはさまざな部品やメンテナンス用品が必要だ。それらを総称して機料品と呼ぶ。機料品店は単に部品を販売するだけでなく、メンテナンスや設置手配まで幅広く産地を支えている。

機屋とともに1世紀を超えて
有限会社藤田機料商店

「うちの仕事で参考になることが話せるでしょうか」。ひらく織メンバーも日頃からお世話になっている藤田機料3代目 藤田和生さんを訪ねた。機料品の動きを通して見える産地の姿、現状について教えてもらうためだ。

藤田機料3代目 藤田和生さん 眞理さん

藤田機料商店は津田駒工業株式会社の正規代理店として丹後・与謝野地域において津田駒の織機や部品供給、修理を担っている。丹後産地には他にも京丹後市の峰山や網野に代理店があり、それぞれの地域をカバーしているらしい。和生さんの仕事は、電子ジャカード等の電装品の入れ替えなどが多いとのことだ。主にカーシートなどを製造する機場が多く、新車の販売状況、ひいては日本経済の動向と直結している。

自動車メーカーの新車開発では、近年は特にコストダウンが厳しくなり、5%や10%単位での下げ幅を求められる。検査も厳しくなる一方で、50メートルの中に5箇所以上の傷があってはならないといったレベルになっているそうだ。「織物は柔らかい糸を扱うので、完璧に傷がない製品を作るということ自体が難しいんです。それを輸入の安い糸でしろと言う」。

 

コストダウンの結果、ジャカード織物では単価が合わなくなり、ドビー織機を使った無地の製品や編み機を使用したニット製品が増えた。今やジャカード織物が使われるのは高級車クラスとなり、その中でも合成皮革との組み合わせが増えて使用面積が減っている。ひと昔前までは中級車や軽自動車にもジャカード織が使われていたと言うから、現代の製品がいかにコストダウンに向かっているかを思い知らされる。

和生さんに話を伺ったのは2020年12月。コロナの影響で止まってしまう機屋が多いなか、工場を回さねばならない苦心が見える。丹後の広幅製品の機屋も例外ではなく、数ヶ月単位で仕事が停止しているそうだ。

 

「電装品は電気を落としたらダメなんです。複雑な仕組みのコンデンサなどが積んであり、電気が抜けたら次に入れた時エラーがおこる可能性がある。電子ジャカードの基盤も織機も同時にエラーが起こってしまったら、どこに原因があるのかを探ることも難しく身動きが取れなくなります」。数日電気を入れっぱなしにすると調子が戻ることもあるそうだが、部品取り替えが必要となった場合は数ヶ月かかってしまう。コロナ禍で部品の製造工場もそれぞれ休業しているため、これまでは1ヶ月で届いた部品は2ヶ月に、3ヶ月で届いた部品は半年というように期間はますます長くなっている。

和生さんの仕事は電装品関連だけではなく、シャットル織機の消耗品手配や、新しい織機の手配から据付、織り出しまでの一連も手がけてきた。機屋の要望に合わせてイタリアから織機を買い付けたこともあり、その仕事は世界規模だ。世界各地に機屋情報に精通した人がいて、国境を超えた機料品のやり取りが行われているというのは、以前訪れた有限会社宮下機料、大縄機料株式会社*1でも聞かせてもらった話。ここ丹後の藤田機料商店も、その一角を支える存在として、産地の発展を支えてきた。単なるサプライヤーではなく、時には仕事と設備を合わせて手配してきたのだ。

丹後産地で活躍するシャットル

コロナによる影響もあり、もう止めようかという機屋が増えていると聞いた。丹後で続いてきた営みのかたちが否応なしに変えられようとしている。その状況でも事業を継続しようとする機屋を和生さんは支えている。「今は一人で出来る範囲の仕事をさせてもらっています」。昔のような大きな仕事をすることは難しいということだったが、今なお産地に欠かせぬ存在だ。

*1 ひらく織遠州編Vol.2 / ひらく織桐生編Vol.1  参照

織物ができるまでに携わる職人は、まだここに紹介しきれないほど存在している。どの技がかけても、どの手がいなくなっても、これまで丹後で築き上げてきた素晴らしい織物の製造は難しい。高齢化と機屋の減少によって、関連業の職人も産地で数人という状態になりつつある。若手職人は自社の製造工程だけではなく、関連業も含めて目の前の技をひとつずつ習得していくしかない。小さな積み重ねが、産地をつないでいくと信じて。

 

記事 原田美帆 / 写真 黒田光力

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